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イギリスの遺跡へ行くぞ!

ああ、日の沈まない王国イギリス。という、世界中から富を簒奪しまくったかつての大帝国だけれど、正直な話、遺跡的な魅力は、他の欧州諸国に較べると弱い。その理由はなんとも言えないが、歴史的に栄枯盛衰があんまりなかったのが原因じゃないかな。

 同じ王朝が、ダラダラと続いていくから、権力の象徴となるような大建築が少ない。

 英雄が少ないことも一因だと思う。魅力的な遺跡は、大英雄に付いてくることが多い。ナポレオンとかカール五世とかスレイマン大帝とかチムールとか。そういった大英雄を、じつはイギリスは生み出してないんじゃないか。 ということで、イギリスの遺跡の筆頭はエジンバラ城とストーンヘンジ。エジンバラ城は、リポートにあるとおり、実はたいしたことない。ストーンヘンジはがっかり遺跡の筆頭格。バッキンガム宮殿を見ることができたら、すごい遺跡なのですが、残念ながら通常はごく限られた公開しかされていません。

 イギリスのもっとも魅力的な「遺跡」は保存鉄道なのではないかと思う。これはすごい。世界でも数少ない「歴史的遺産」です。たくさんありますので、鉄道好きならずとも、ひとつくらい行ってみると楽しいのではないでしょうか。

 あとは、産業遺産でしょうか。こちらは、筆者はまだ行ってないのですが、近代建築の法が、イギリスはおもしろそうです。 日本からのアクセスはJL、NH、VA、BAなどの直行便でどうぞ。物価は高いです。日本の五割り増しくらいと考えておけば間違いありません。イングランドエリアではユーレイルが使えないので、ブリッドレイルパスを用意しとくと、鉄道での移動がラクです。

 ブレナム宮殿 ★★★ 
  貴族ってすごいな、って思った話

 学問都市オックスフォードからバスで30分。道路沿いのたいそうな門の向こうには広大な敷地が広がる。これ、ぜーんぶ、イギリス貴族モールバラ公爵の私有地である。

 広さは、庭園だけで約2100エーカー(約850万平米)、代々木公園の約16倍、成田空港の約6倍にあたる。こんなものが全部私有地であることに、まず僕ら平民日本人は驚く。日本のエンペラーよりよほど土地もっているじゃん。門をくぐった、果てしない先に豪華な建物が見えるが、それがブレナム宮殿である。

 この地はウッドストックといい、持ち主はモールバラ公である。ならば、「ウッドストック宮殿」とか「モールバラ宮殿」という名称でいいと思うのだけれど、なぜ「ブレナム」という名前なのか。説明をするのは大変なのですが、まあ読んでください。

 歴史は18世紀初めにさかのぼる。1700年、スペイン・アブスブルゴ朝(ハプスブルグ家)のカルロス2世が子孫を残さずに死去し、王統が断絶した。フランス国王ルイ14世は自分の孫のフィリップをスペイン王に据えようと画策する。これに対し、フランスの強大化を恐れたオーストリアは、イギリス・オランダと大同盟を結び、宣戦を布告。スペイン継承戦争が勃発する。戦争は当初同盟軍の優勢に進むが、フランスはバイエルン公国の同盟を得てアルザスを占領、さらに南ドイツからオーストリア本国を脅かした。

 ここで、モールバラ公が登場する。イギリス・アン女王の麾下モールバラ公は、南ドイツまで遠征し、オーストリア軍と共にブレンハイムの地でフランス軍を破った(1704年)。これがブレンハイムの戦いである。ブレナムとはブレンハイムの英語読みであり、モールバラ公はこの戦いの戦功によりアン女王から広大な土地と宮殿を賜った。それが、ブレナム宮殿の始まりである。あー、長かった。長かったけれど、これだけ説明しないと、なんで南ドイツの地名がイギリスの宮殿の名前になったか、日本人にはさっぱりわからないのだ。

 ちなみに、モールバラ公は後に軍資金横領が発覚して失脚、戦争はユトレヒト条約にて終結する。公の失脚により、宮殿の建設資金も不足。それをどう工面したのかが、現地の解説書にはくどくどと書いてありますが、そんなことはたぶんみんな興味ないし、書き始めるときりがないので、このへんにしておきます。とにかく、簡単にぼこっと大金を投じて作られたのではなく、お金を集め集め、20年近くの年月をかけ、次第に建設されていった、ということのようです。一通りの建設が終わったのは、1722年のことだ。

 さらに、この宮殿が有名なのは、あのウインストン・チャーチルの生家としてである。いうまでもなく、第二次大戦で日本と戦ったあのチャーチル。日本からしたらルーズベルトと並んで宿敵です。そうかあ、チャーチルはこんな大金持ちの家に生まれたのかあ、と、僕はわけもなく悲しくなりました。東条英機は困ったヤツだったが、軍人の三男坊にすぎない。貧乏人は、金持ちに勝てないのかあ、と。まあ、そんなことはおいておいて。

 とまれ、モールバラ公もチャーチルも、イギリス人にとっては祖国に勝利をもたらした英雄である。それを知らないと、なぜこの宮殿がこれだけありがたがられるか、が理解できないんじゃないかと思う。世のホームページやガイドブックの記述に、こうした視点が欠けているのはまったく残念というほかない。だって、それをのぞいたら、たいした宮殿じゃないんですから。

 宮殿にはモールバラ公11世が現在も住んでおり、そのため、全部を見ることはできない。住居の一部が博物館として開放されているだけだ。詳細は写真を見て頂くほかないのですが、もちろん住居として立派。でも、しょせん田舎貴族の館にすぎない。ベルサイユ宮殿などと比べるべくもなく、「これだけ?」という印象はぬぐえない。書斎や寝室、チャーチルの生まれた部屋などを見ることができるが、近世の貴族はこんな暮らしをしていたのね、というくらいのことがわかる程度だ。左がチャーチルの生まれた部屋。


 庭園は、非常に広い。ただこれも、どこが見所か、と聞かれたらちょっと困る。広い、全体的に美しい、ということが見所なのではないかと思う。だから、ガーデンに面したカフェでビールでも飲んでいればいい。

 下は園内を走る蒸気機関車。こんなのを自分の庭に敷ける家っていいなあ、とちょっと思わないでもないです。はい。

 ま、ということで、イギリスの貴族のすごさを感じてみたい、という目的でなら、行く意味はあります。でも、その程度です。

  (2007年8月訪問)

 バース市街 ★★ 
  天然温泉を勉強しなおしてください

 イギリス唯一の「天然温泉に入れる町」。それがバース。お風呂の町だからBath。とても簡単ですね。

 ここに温泉が湧いていたのは、有史以前からの話。明確な歴史にバースが現れるのは、紀元前43年で、クラウディウス帝によるブリタニア征服後のことだ。お風呂好きのローマ人が、この町にスパを作ったのは当然で、その結果、ここには立派な「ローマ浴場」が建設された。

 4世紀にローマが滅んだ後、この浴場は放棄され、地中に埋まってしまう。再発見されたのは18世紀で、以後はイギリス貴族の保養地として発展する。バースが世界遺産に登録されたのは、この保養地の街並みがよく残っているからであって、古代ローマ浴場があるから、というだけの理由ではないそうだ。

 とはいうものの、この街の最大の見物が、ローマ浴場跡であることに間違いはない。鉄道駅から徒歩10分、街の真ん中にこの遺跡はある。


 立派な建物が入口だが、「これがローマ時代のものかあ。うーむ。趣があるなあ」なんて思ってはいけない。遺跡は地中に埋まっていたのだ。地上の建物は全て近代の建築物である。

 見学は、この近代の建築物から地中に下り、博物館を延々と見せられた後に、ようやくお目当ての大浴場にたどり着く。

が、正直言って、たいしたことはない。ポンペイのローマ浴場に比べれば、保存度も低く、規模も小さい。ここはガリアの先のブリタニア。ローマ帝国としては辺境の地で、したがって、スパも辺境のスパに過ぎないのだ。しかも、近代の建物があれこれくっつけられているから、どこからどこまでがローマ時代のものなのかが、よくわからない。遺跡保存の仕方としては優れていないと思う。

 温泉はいまも湧いている。「この水は洗浄されていないから、触ってはいけません」なんて妙な注意書きがあるが、触って大丈夫。温泉を触っていけないなんて、あほくさい言い分は無視して、触って舐めてみよう。ほのかに硫黄の匂いがする。事実、小さな浴場には、いまだに満々と湯がたたえられ、湯気がでている。あー、入ってみたい!って日本人なら思うでしょ。

 そんな日本人の願いを叶えるためかどうかは定かではありませんが、この浴場遺跡のすぐ近くに、実際に入れる温泉スパが誕生した。ミレニアム記念事業と書いてあるから、たぶん2000年にできたのだと思う。「テルメ・バース・スパ」という施設だ。なんでも、英国では唯一の天然温泉、というのが売りで、パンフレットにもそう書かれている。

 「ニュー・ロイヤル・バス」が20ポンド、「クロス・バス」が12ポンドと高額だが、せっかく来たので入ってみた。「クロス・バス」の方です。お金をケチったのではなく、こちらの方が、「天然の温泉水が、特別にあつらえられたプールサイド横の施設から滝のように流れてきているのを見ることができます」などと書いてあり、天然温泉ぽかったから。

 が、入ってみたら、大失望。温泉施設というよりプールなのは、文化の違いだから仕方ないとして、お湯が明らかに塩素づけ。先ほどの硫黄の匂いなんてどこかに消え去り、塩素の匂いしかしません。「よく洗浄された温泉水」なのでしょう。「滝のように」流れ出ている施設は、直径30センチほどの半球にすぎず、プールの広さも平泳ぎ二かき分程度。これで12ポンド(約3000円)とはすごいなあ、日本なら300円でも二度と来る客はいないだろうな、と思いつつ30分。だって、35度と湯温が低すぎて、なかなかあがれないのだもの。

 なんだか、遺跡紹介というよりは、温泉紹介になってしまいましたが、それ以外にこの街に見るべきものはほとんどありません。世界遺産で名前だけは有名ですが、まあはっきりいってロンドンでミュージカルでも見ていた方がよほどましです。はい。

(2007年8月訪問)

 エジンバラ城 ★★★ 
  外観は満点なのですが

 遺跡外見グランプリ、というものがあれば、エジンバラ城はかなり上位にランクすると思う。岩山の絶壁の上にそそりたつ、黒ずんだ要塞。遺跡ファンならずとも、「行ってみたーい」度が激しく湧き上がるであろう素晴らしい外観である。

 さて、この城の歴史は想像以上に古い。いわゆる「エジンバラ城」の創建は7世紀とされているが、ここに砦が築かれたのはもっと古いようだ。紀元140年頃にはエジンバラ一帯はローマ帝国の版図に入っていたが、当時からここにローマ人の砦があったらしい。

  王宮として使用されはじめたのは11世紀。けれど、ご存じの通り、スコットランドは内乱や対外戦争が多く、堅牢に見えるこの城も、何度も陥落している。そのたびに焼け落ちたり取り壊されたりしていて、現在残されているものは、ほとんどが17世紀以降に建築あるいは再建されたものだ。実際に内部を見た印象としとしても、往時の雰囲気をそのまま残している、という感じではなかった。

  建物は多いが、見所は上郭に集中している。中庭にあたる「クラウン・スクエア」が城の中心部で、この周囲に重要な建物がある。だが、建物に入ってみるとほとんどただの博物館と化していて、往時をしのぶのはちょっと難しい。

 そのなかで興味深いのが、やはりお宝。王冠、王錫、王剣が保存されていて、これはスコットランド版「三種の神器」、「スコティッシュ・レーガリア」というそうだ。すべて見ることができて、非常に興味深い。でもいつも王冠とかみると思うのだけれど、豪華だけど意外と小さいよね。スコティッシュ王冠も、決して大きくはありません。

  また、地下室には牢屋や刑務所があり、これは昔の雰囲気そのままに保存されている部分もある。牢屋は捕虜収容所として使われており、ナポレオン戦争の当時には、アメリカ人の捕虜もいたという。

 見晴台が何カ所もあり、エジンバラの街並みを見下ろす景色はなかなかだ。ただ、残念ながら、ここからはいくら見晴らしがよくても、エジンバラ城は景色の中に見ることはできない。

  トータルでいうと、見ているほうがいいお城、ですね。はい。

(06年訪問)

 ホリルードハウス宮殿  ★★★ 
  スコットランド的住居

岩の上にあるエジンバラ城は、王には住み心地が悪かったらしい。そこで、城の外に王の宮殿が建てられた。それがホリルードハウス宮殿である。

 城と宮殿の距離は約1マイル。城からなだらかな坂をずうっと下っていくと、宮殿にたどり着く。スコットランドの有名な女王メアリーが好んだ宮殿ということで有名なのだが、メアリー女王なんてそんなに知らないですよね。簡単にいうと、スコットランド女王なのだけれど、最初フランス王と結婚し、のちにイギリス人と結婚し、最後はプロテスタントから迫害されて45歳にて殺されてしまったという悲劇の人物です。

  ちなみに、彼女の子供がスコットランド王ジェイムス6世で、イングランドの王の世継ぎがいなかったため、後にイングランド王も兼ねた。ジェイムス6世によって、スコットランドとイングランドが統合され、事実上「連合王国」が完成するのです。1603年、日本で江戸幕府ができたときに、イギリスで「連合王国」ができたのですね(実際に連合王国が正式に成立するのは1707年のことです)。

 イングランドの王に敵国・スコットランド王を迎える、という発想が、なかなか東洋人には理解しづらいのですが、西洋の場合、王室はだいたいどこかで血が繋がっていて、国同士が敵対していても、王室同士は仲良かったりしたみたいですね。こういう「なあなあ」がなくなり、本気で敵対し合うのは、フランス革命以降のことです。


 閑話休題、そのメアリー女王が愛した宮殿、というのが、ホリルードハウスの紹介文を読むと必ず出てきます。メアリーがジェイムスを生んだのもこの宮殿なので、いわば連合王国「生誕の地」なわけです。だからなのか、イギリス人はメアリーとこの宮殿に思い入れが深いようです。

 現在でも、この宮殿は王の持ち物で、王室がエジンバラを訪れたときはここに滞在するそうです。それはいいのですが、そのため、見学できるエリアは限られるのが残念です。

 現在の建物は17世紀に建てられたゴシックぽい重厚な造り。メアリーが使ったというベッドなどが見られるが、よくあるヨーロッパの宮殿と同様という程度の印象しかありません。規模も、ヨーロッパの他の宮殿などと較べるとかなり小さいですね。

 石造りの重々しい雰囲気の建物はなかなかそそられるが、そんなに期待していってはいけません。

(2006年訪問)

 カーディフ城 ★★ 
  古いことは古いのだけれど

カーディフといえば、ウェールズの首都である。ウェールズといえば、イングランドに反抗したケルト民族の末裔の国で、いまなお、独自の文化と言語を有する。だから、首都カーディフは古い歴史のある都なんだろうなあ、なんて思っていくと、ちょっとがっかりするかも。

 カーディフの歴史はたしかに古い。約2000年前にローマ人によって開かれた街だからだ。とはいえ、ローマの撤退後は衰退し、産業革命後、石炭の積出港として活気を帯びるまでは、ただの寒村だった。ウェールズの首都になったのは、1955年で、「ヨーロッパでもっとも若い首都」だそうである。

 だから街の中を歩いても、「歴史を感じるなあ」と思うことはあまりない。率直に言ってつまらない街である。この街の見所は、このカーディフ城だけと言っていい。

 カーディフ城は、不思議な城である。歴史はローマ時代にさかのぼるほど古く、西暦75年の築城で、当時作られた城壁が、いまなお現存する。これは貴重である。とはいえ、城の大部分は、その後13世紀に建てられたものを19世紀に大改築したもの。見学コースが設定されている城内の部屋は、ほぼすべて19世紀のもので、ビュート侯という企業家の貴族が整備したものだ。「城」という名前はついているものの、当時は要塞的な意味合いは失われていたようだ。つまり、ただの19世紀の大金持ちの豪華なお屋敷ともいえるのだ。

 さて、見学は、正面のチケットブースでチケットを購入する。すると、見学ツアーの時間が指定される。建物内の見学はこのツアーによらなくてもはならない。

 城内に入ると、広い中庭の真ん中に、ぽつんと、廃墟のような要塞がある。これは13世紀のノルマン時代の要塞跡。もともと、この高台にローマ時代に要塞が作られ、その後ノルマン時代に新しいものが建てられた、ということらしい。

 左に曲がると、城内見学ツアーの入口がある。

 さて、内部の見所は、19世紀のイギリス的世界観が描写された内装、ということになろうか。アラビアンナイトをモチーフにしたタイルとか、天文学をテーマにした部屋とか、アラブ風の部屋、東洋風の部屋などがある。世界帝国イギリスの意気込みというか、熱気が、ウェールズの金持ちの館にまで反映されていた、ということだ。おそらく、こういうのが流行の先端だったのだろう。

 古い貴族の館を見ていると、ワンパターンな宗教画と肖像画、それに彫刻に飽きてくるのですが、19世紀ともなると、そういうものから脱却しているのだな、というのがよくわかります。室内装飾の緻密さも、格段に進歩しています。18世紀のブレナム宮殿を見た後にこちらを見たので、そういう感想が、僕にはありました。


 中庭にある13世紀の砦には登ることができます。まあ、普通の古い砦で、こちらも取り立てて、すごいものがあるというわけではありませんでした。城を形作る城壁の上も、一部歩けます。これは古代ローマ時代からのもので、土累に覆われていたために、よく保存されていたそうです。

 とまあ、2〜3時間は楽しめる遺跡ですが、この城の歴史的価値はさして高くはありませんし、宮殿を見慣れている人ならば、とくに感激はしないでしょう。また、前述したようにウェールズ自体が退屈な街なので、わざわざ行くほどの価値はないような気がします。

(2007年8月訪問)




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