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ウズベキスタンの遺跡へ行くぞ!

旧ソ連諸国のなかで、もっとも観光的に脚光を浴びているのがここ、ウズベキスタンだろう。自由旅行の解禁とともに、観光客が急増。とくに、ここ数年はブームといっていい状況となった。  

この国の見所は、なんといってもシルクロードの豊富な遺跡群。サマルカンドは名前を聞くだけで行きたくなるし、ヒヴァやブハラの街並みは、世界的にも超貴重なものといっていい。

2001年春に、関空からの直行便(ウズベキスタン航空)が登場し、一気に便利なった。また、アシアナ航空が週2便運行しているので、ソウル乗り換えを使えば、日本の主な都市から同日着が可能で、アクセスは想像以上にいい。

旅行するための難点は、ヴィザ手配が面倒なことと、国内移動が大変なこと。国内線飛行機は欠航がきわめて多いので、必然的に陸路を使わざるを得ないが、バス便も発達しているとはいいがたい。救いは、タクシーが安いことなので、時間が無くてカネがある人は、長距離移動にもタクシーを使うと便利かも。タクシーをうまく使えば、1週間の日程で、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァをまわりきることも可能だ。

物価はインド並みに安いが、ホテル代は旧共産圏プライス。旅行手配は、中央アジアに強いエージェントを使うこと。国内ホテルの事前予約やエクスカーションは、ヴィザ手配の必要条件ではない。ヴィザ発給に時間がかかるので、早めの計画を。

 レギスタン広場(サマルカンド) ★★★ 
  ティムールの都といえば!

サマルカンドといえば、ティムールの都! そのサマルカンドを代表する遺跡といえば、ここレギスタン広場ということになる。青いタイルが鮮やかな3つのマドラサ(神学校)に囲まれたこの空間。何ともいえぬ優雅な雰囲気が漂っていて、たしかにサマルカンドを象徴する場所といっていい。   

ところが、じつはここにある3つの建築物は、いずれもティムールの死後に建てられたものだ。つまり、チムールの時代には、ここには何もなかったのである。「ティムールの都」が売り物のサマルカンドの、その代表遺跡がティムール後のものとは、なんだか納得いかない気がしないでもない。   

それはさておき、ここにある3つマドラサのうち、一番のみものは何といってもティッラ・カーリ・マドラサだろう。中央にあるマドラサである。これは3つのうち最も新しく、建造は1660年。ティムール帝国滅亡後のものだ。   

入って左手、青のドームのなかにある礼拝室は金箔で覆われ、とても美しい。たんに金が使われている、というだけでなく、精巧な幾何学紋様が色鮮やかに組み合わされている。「青いモスクは見飽きた」なんて言っている旅人も、これには息を呑むこと間違いない。   

本当は内部がライトアップされているとなお美しいのだけれど、残念ながら普段は照らしてくれません。ツアーがきたときにスイッチを入れてくれることもあるそうなので、ゆっくりじっくり待ちましょう。   

他の2つのマドラサについては、とくに言うことはありません。ここは、マドラサをひとつひとつ見るというよりも、3つのマドラサが織りなす広場の雰囲気を楽しむ場所、という気がいたします。   

ただ、あえて言うと、知名度の割には・・・、という気がするのも事実。同じ青いモスクの広場なら、イマーム広場(イラン)のほうが迫力は上、というのが率直な感想です。
(2001年訪問)

 グル・アミール廟(サマルカンド) ★★★ 
  ティムール様の眠る墓

ティムール、という人物を、僕たちはどれだけ知っているだろうか。  

貧しい地方領主から身を起こし、サマルカンドを陥とし、キプチャク・ハン国を倒し、イラン、イラクを制圧し、デリーを占領し、マルムークを一蹴し、オスマン・トルコの皇帝を捕虜にし・・。1370年のサマルカンド制圧から1405年に明遠征途上で死ぬまで、チムールは戦闘で一度も負けなかった。その占領地域の広さではアレキサンダーやチンギスハーンには劣るけれど、マルムークやらオスマンやら、大国ばかりにこれだけ勝ちまくった将軍は、歴史上例がないんじゃないかと思う。  

その偉大なティムール様が眠るのが、このグル・アミール廟だ。ティムールだけでない。ウルグベクをはじめティムール朝の他の皇帝や将軍も眠っているというから、まさしくここはサマルカンド第一の聖地、といっていい。  

廟は、例によって四角い門に青いドームにミナレットという、典型的イスラム建築で、外観上の驚きはない。  

廟に入った一階に棺桶がいくつかあるが、じつはこれはみせかけの棺桶。チムールの実際の棺桶は地下墓室にあり、賄賂を払えば入れてくれる。廟の裏手にある小さな入り口から地下へおりる通路は、エジプトのピラミッドを彷彿とさせてくれる。深くはない地下だけれど、ちょっとぞくぞくする瞬間だ。薄暗い墓室の真ん中にある、大理石の箱こそが、チムールの棺桶である。  

そしてここには、いまも本当にティムールの遺骸が納められているという。

1941年にソ連の学者が初めてここの棺を開けたところ、ティムールは仰向けに寝かせられていたという。そして調査によって、彼の右手右足が不自由だったことなどが証明された(これは古文書と一致した)。墓荒らしなどが当然の時代を500年も下ってきたというのに、この廟が荒らされていなかった、ということに、率直に驚く。あるいは、地下の墓室だけが、存在を知られぬままに埋もれていたのだろうか?  

ところで、ティムールの棺には、こんな文章が書かれていたという。「この墓を開いた者は、恐ろしき者にうち倒されるであろう」。気味の悪いことに、独ソ戦が始まったのは、棺桶が開けられた翌日のことだった。ティムールの呪いは生きていたのかもしれない。ただ、最終的には、「恐ろしき者=ヒトラー」は、ソ連をうち倒すことはできなかったのだけれども。  

ちなみに、この言い伝えに恐れをなしたソ連当局は、ティムールの遺骸をもとに納め、鉛で封印した。いまも、その封印はとかれていない。
(2001年訪問)  

 ビビ・ハヌム・モスク(サマルカンド)  
  手抜き工事の行く末は・・・

ティムールが作った最大のモスクがこれ。1399年、デリー遠征から帰ったティムールが、帝国中から職工を集めて作った、ティムール朝を代表する大建築物だ。現在でも、中央アジアでもっとも大きなモスクとして知られている。  

敷地内に入ってみると、たしかにでかいことはでかい。中央の青いドームなど、見上げると天空にあるかのようである。ただ、これだけのモスクだというのに大切に扱われなかったらしく、建物はかなり崩壊し、廃墟に近いといっていい。危険なので、建物内にも入れない。現在は修復作業に一生懸命だが、その作業の木組みなどがうざったくて、正直いって遺跡的雰囲気はあまりない。  

この修復工事は、1970年くらいからすでにはじめていたというから、もう30年にもなる。それでも、いまだ廃墟のようなのだから、昔はもっと荒れ果てていたのだろう。  

荒れていた原因はいくつかあるだろうが、結局のところ、でかすぎて、建物がすぐに崩れてしまったから、というのが最大の理由らしい。このモスクはティムールが突貫工事で造らせたのだけれど、急ぎすぎた工事は欠陥建築を生んだにすぎなかった、ということだ。80メートルあったというミナレットも、いまは折れて中空をさまよっている。  

なんだかちょっと気がすさむような遺跡なのだ。  
(2001年訪問)

 シャー・イ・ジンダ廟(サマルカンド)  ★★★ 
  サマルカンドで一番雰囲気がいいかもね

サマルカンドの穴場的遺跡、とでも言おうか。ティムール朝の皇族などが埋葬されている遺跡なのだけれど、小さな廟が通路の両側にずらりと並んでいて、それがまたバランスの取れた雰囲気を醸し出している。   

シャー・イ・ジンダとは、「生ける王」の意味で、ここはもともと、クサムというモハメッドのいとこを祀る廟だった。そこにティムールの時代に皇族などの廟が作られ、一大霊地になった、というわけだ。いまは20ほどの廟がある。   

ひとつひとつの廟は小規模なのだけれど、建築的には凝っているものも多い。とくに一番奥のクサムの廟は、青いタイルが非常に美しい。一番奥にある巡礼者の間は、小さいながらもとても落ち着く空間だ。   

とにかく、廟全体の雰囲気がいい遺跡。のんびり落ち着いて時間をとるといいと思う。
(2001年訪問)  

 アフラシャブの丘(サマルカンド)  
  なんもないっす

チンギス・ハーンに破壊された、旧サマルカンドの街があったところ。  

とはいうものの、現状では正直、なんにもないです。はい。茫漠とした地面がぼこぼこしているだけで、ここがかつて殷賑をきわめた街の跡だよ、と言われても、あ、そう、って感じがしてしまいます。  

とにかく広いことは広いので、非常に想像力のある人ならば、楽しめるかも知れません(僕には無理ですが)。
(2001年訪問)

 ウルベルク天文台跡(サマルカンド) ★★ 
  天文台といわれても・・・

ティムールの孫で、第3代皇帝となったのがウルベルグ。とはいうものの、彼が在位していたのはわずか2年だけで、しかも子供に暗殺されるという最期を遂げているから、為政者としての彼の資質は、優れていたとは言いがたい。  

でも、ウルベルグは、現代ウズベキスタンにおいて、ティムールに次ぐ人気の歴史的人物である。なぜ? それは、皇帝になる以前も含めた、彼の学者としての業績が優れているからだ。彼はイランなどから高名な学者を招き、サマルカンドを学問の都として繁栄させた。サマルカンドの文化的なイメージは、ウルグベクの時代に確立した、といってもいいだろう。  

とくに天文学は、彼がもっとも得意とした学問のひとつで、彼の作った天文表は、世界的にも高い評価を受けている。その天文観測が行われていたのが、この天文台。ウルグベクの死後に破壊されてしまったので、残されている遺構は少ないが、六分儀といわれる、観測装置が1908年に発掘されている。  

六分儀、といわれても何のことかわからない人が多いとと思うけれど、円周の6分の1を立体的な建造物にしたもの。天に向かって曲線がせりあがっていく形になっていて、星の移動を観測するのに役立つそうだ。  

それ以外の建築物が残っていないので、マヤの天文台のような感動は望めない。天文台といわれても・・・って人も多いのではないかと思う。でも、僕はそれなりに感心しました。
(2001年訪問)

 アク・サライ宮殿(シャフリサーブス) ★★★ 
  アーチは語る・・・のかな?

シャフリサーブスは、ティムールの生まれ故郷として知られる町。アク・サライ宮殿は、彼が故郷に造った巨大な宮殿である。ティムールが造った建築物の中でも最も巨大なもの、といわれていている。   

とはいうものの、いま残されているのは、かつての門のひとつとみられるアーチだけ。現存するのは高さ38メートル、かつては50メートルもあったという壮麗なもので、たしかに立派は立派だ。こんなすごい門があった宮殿というのは、いったいどんな巨大なものだったんだろう、と思うのだけれど、しょせん、いま見ることができるのは門だけである。たいしたものではない。門の大きさから膨らむイマジネーションは大切にしたいし、僕自身はなかなか雰囲気もあるとは思うのだけれど、人にはとくに勧めないなあ・・。   

シャフリサーブスには、他にドルティロヴァット建築群とドルッサオダット建築群という、2つの著名な遺跡があるけれど、どちらも建築自体にはさしたる特色はない。ドルッサオダット建築群には、ティムールが葬られるはずだった墓があり、真っ白な棺桶まで残っている。でも、グル・アミール廟で書いたとおり、ティムールが眠っているのはサマルカンド。ここではない。   

ところが、この「ティムールが葬られるはずだった棺桶」にも、じつは遺体が入っている。誰の遺体だかはわからない。ひとつだけ言えることは、この棺桶には呪いがかかっていなかった、ということ。棺桶を開けた直後でも、攻めてきた敵はいなかったのだ。よかったよかった。 (2001年訪問)  

 ブハラ旧市街(ブハラ)  ★★★★ 
  街並みはすばらしいです

居心地のいい町である。ここは遺跡とかなんとかいう前に、滞在しているだけで快適ですね。こういう町って、あんまりないです。  

さて、遺跡的な話をすると、ここには16世紀頃に造られた街並みが現在に至るまでほぼそのままで残されている。だから、街全体が中世の雰囲気を残していて、歩いているだけで楽しい。かつての王宮や、巨大なモスク、マドラサもある。中世ののシルクロード都市がワンセットなのだ。市街地全体が世界遺産に指定されているのも、うなずける。同じ「街全体が世界遺産」ならば、京都にもこういう旧市街があってもいいのにな、なんて思ってしまいました。  

ただ、だまされちゃいけない点もある。とにかく、めったやたらと露骨に修復しているのだ。一番の見所はアルク城だと思うのだけれど、この城壁は、どう見たって最近作り直している。真新しいのだ。修復は必ずしも悪いことではないけれど、ちょっとディズニーのテーマパークを思い浮かべてしまった・・・。  

見落として欲しくないのが、イスマイール・サマニ廟。ブハラはチンギス・ハーンの徹底的な破壊を受けて、11世紀以前のものはほとんど残っていないのだが、この廟だけは例外。10世紀に造られた、中央アジアに現存する最古のイスラム建築物なのだ。日干し煉瓦を積み上げただけなのに、細かい装飾がなされていて、その技術には目を見張る。  

ちなみに、イスマイール・サマニ廟は、3回まわると願いが叶うという言い伝えがあるそうです。で、僕も3回まわってみたのですが、よくよく考えてみたら、この遺跡はモンゴル来襲のときから地中に埋もれていて、1925年に発掘されたもの。つまり、「願いが叶う」なんて言い伝えは、20世紀になって作られた話なのではないか?   

まあ、信じる者は救われる、とはいいますし。ちなみに、僕の願いはいまのところ叶っていないということだけは、付け加えておきます。
(2001年訪問)

 ヒヴァ旧市街(ヒヴァ) ★★★★★ 
  この保存度にはたまげます!

想像してみて欲しい。たとえば時代劇で見ている江戸の町並みの世界に、自分が入り込んだとしたら。そしてその町並みが、「仮想世界」として作られたのではなく、古い時代に作られた「現実世界」として、いまも残されているのだとすれば。   

そりゃ、感動するでしょう。大きな城や寺が、古い時代の雰囲気を伝える例はいくらでもあるけれど、ただの民家なども含めた町並みが、昔と変わらずがそっくり残されている例となると、なかなかない。少なくとも日本にはまったくない。   

そんな感動を味わえるのが、ヒヴァだ。   

ソ連時代には「博物館都市」と名付けられたが、あながち誇張じゃない。ブハラは「町の一部がそっくり残されている」というのに対し、こちらは、「城市の雰囲気がそっくり残されている」ということになるのだろうか。中世に作られた城壁の中に、多数の建物が、昔のままの形で存在し続けている。その雰囲気には、掛け値なしに圧倒されるでしょう。僕も一歩足を踏み入れた瞬間、「うおっ」と声をあげてしまいました。バム(イラン)のような雰囲気を想像していたのですが、バムよりも保存度は抜群に上です。   

歴史を紐解くと、現存する城壁は18世紀のもので、城内の建物の多くもそれ以降に建てられたものだ。だから、古さといえばそれほどでもない。ただ、近代化の遅れた地域なので、20世紀に入っても建築手法的には中世の伝統そのままだったから、僕たちは美しきシルクロードのオアシス都市の雰囲気を、いまでも味わえるというわけだ。   

ただ、ひとつひとつの宮殿や、マドラサや、モスクを取り上げてみると、それほど特筆すべきものはない。だから「観光」ということになると、半日あれば回れてしまうだろう。でも、ここはそういう楽しみ方をする町ではないだろう。パックツアーでないならば、遺跡内の宿でのんびりできる。そこでビールでも飲みながら夕涼みすると、とてつもなく幸せな気分になれるのは間違いない。あ、それは僕か・・・。
(2001年訪問)




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