| ホーム | 遺跡レポート | 遺跡ランキング | 書評・旅本閻魔帳 | 旅の持ち物 | 情報募集 |

トルコの遺跡へ行くぞ!

 ビザンツからオスマンまで、世界的な大国家が建設されたのがアナトリア。現在のトルコです。そのため、トルコには遺跡が豊富すぎて困るくらいです。

 トプカプ宮殿 ★★★ 
  歴史を学んで行ってみよう

イスタンブールは、遺跡だらけで困ってしまう。

 アヤソフィア、ブルーモスク、トプカプ宮殿などの超有名遺跡から、テオドシウスの大城壁、ルメリ・ヒサーリ、カーリエ寺院、地下貯水池など、見所を挙げたらきりがないからだ。この街の遺跡を本気で見て回ろうとするならば、10日あっても足りない。おそらく、1ヶ月以上かかるんじゃないかと思う。

 なぜそんなに遺跡だらけかというと、ここは4世紀から20世紀まで、1600年もの長きにわたって繁栄した帝都だからである。しかも、ここを支配したのは、東ローマ帝国とオスマン・トルコ帝国という、どちらも巨大な国家であった。それだけに、世界中の富がここに集まり、残された建築物は数え切れないほどになるのである。

 なかでも、トプカプ宮殿は、オスマン皇帝の根拠として名高い。ハレムがあることでも有名だが、実際に行ってみると、意外に地味な空間であることに気づく。ヨーロッパのような派手な宮殿を思い描いていると、地味すぎてつまらない、と感じるかもしれない。そういう人は、「トプカプはつまらなかった」というに違いない。そしてそれは、一面の事実である。ただ見て回るだけでは、あんまりおもしろくない遺跡だ。

 だが、トルコの歴史を少しでもかじっていけば、この宮殿はとても興味深い。一例を挙げると、ハレムの「皇子の間」であろう。そこは、わずか20畳そこそこの部屋でしかない。そこに、王子は住んでいたのではなく、幽閉されていたのだ。トルコでは、皇子は「次の帝位を狙う者」として、皇帝から睨まれていた存在であった。そのため、皇帝が死ぬまで、ハレムの片隅の部屋と、せいぜいその周辺の小さな空間で幽閉されつづけたのである。

 なかには、20歳過ぎても、ハレムから一歩も出たことがない、という皇子までいたらしい。こうなると、精神に異常をきたさない方がおかしい。オスマン帝国は、中期以降、傑出した皇帝を生み出さなかったが、その原因は、こうした幽閉制度にあった、と指摘する学者は多い。

  わずか20畳の部屋に、20年以上も住み続けた皇子。それを想像するだけで、感慨を感じるではないか。

(98年訪問)

 アヤ・ソフィア ★★★ 
  悲しい賛美歌が聞こえてきそう

 すごいびっくりするのだけれど、この大聖堂ができたのは、なんと西暦537年である。法隆寺より古いのである。その建物が、いまだに聖堂として建ち続けているのだから、何ともすごい。法隆寺五重塔も凄いけれど、塔の中に一般人が入れるわけではない。この聖堂は、いまだに一般人がわんさと入りつづけているのである。イスタンブールに行ったのなら、ぜひ立ち寄りたい場所だ。

 作りは石造り。高さは56メートルもある。天井には巨大なドームまである。こんな馬鹿でかい聖堂が、1400年も前に建てられたのである。当時の技術力と帝国の財力は、計り知れないものだったのだろう。いやいや、こういうものを見せられると、地中海世界の歴史の長さ、強さと、日本という国の小ささ、辺境性を、思い知らされます。はい。

 この聖堂の見所は、建物そのものだけではない。壁に描かれたモザイク壁画である。アヤソフィアは、オスマン支配下では、モスクとして使用されていたため、ヴィザンツの時代に描かれた壁画は漆喰の下に塗り込められてしまっていた。それが、トルコ革命後の大修復で、漆喰のしたから、昔の壁画を復元することに成功したのである。500年の眠りから覚めたキリスト壁画。それだけでもドラマティックではないか。

 色とりどりの石片でちりばめられた壁画は、ヴィザンツ特有のもので、ローマなどでは見られない貴重なものだ。イスタンブールでは、ほかにカーリエ教会でも見られるので、是非いってみるといいと思う。

 ちなみに、1453年のコンスタンチノープルの陥落(トルコによるヴィザンツ征服)の夜、ここは避難してきたヴィザンツ市民で溢れかえったという。外は、トルコ軍の蹂躙。聖堂の門を堅く閉め、神の奇跡を祈りながら、市民は延々と賛美歌を歌い続けた。しかし、祈りは通じず、皇帝は戦死、ヴィザンツ帝国は滅亡した。聖堂に避難していた市民も最後には降伏し、そのほとんどは奴隷として連れ去られた。

 ドームの頂上のキリスト像を見ていると、そのときの賛美歌が聞こえてくる気がする。たぶん、この世で一番悲しい賛美歌だったことだろう。

(98年訪問)  

 ブルーモスク ★★ 
  おーい、どこがブルーなの?

 名前から想像すると、なんだか宝石みたいにきらきらしたモスクのようなイメージがするが、それはウソである。私は、どこがどうブルーなんだか、いまもってよくわからない。ま、立派ではありますが。

 ここは、アヤソフィアと同様、イスタンブールのシンボル的な建物である。ただ、遺跡としての強さは、やっぱりこちらのほうが落ちるんじゃないかと思う。というより、ここは現役のモスクであるから、ひょっとしたら遺跡とも言えないんじゃないか、とすら思うんだけど、まあいいや。

 このモスクができたのは、1616年のこと。徳川家康が死んだ歳ですね。日本では東照宮が作られ、イスタンブールではブルーモスクが作られた、というわけだ。作ったのはスルタン・アフメット1世である。このアフメット1世は、たいした業績ものこしていない凡庸な君主である。しかし、目立ちたがりというか、権力誇示欲は旺盛だったらしい。アヤソフィアより大きなモスクを作り、帝国の威信を示したい、という、じつにたわいもない発想でブルーモスクは建造された。しょせん、アヤソフィアは異教徒の作ったもの。イスラムの作るものはもっすごいんだぞ、ということを誇示したかったのだ。

 おりしも、オスマン帝国は、その絶頂を演出したスレイマン大帝の死(1566年)から半世紀、小さな反乱が起こったりして、少しずつ斜陽期に入りはじめていた頃だ。そんなときにこんな大工事をしても大丈夫かいな、と思うんだけど、まあ、帝国はその後300年も続いたんだから大丈夫だったんだろうな。

 そういう発想で作られたのだから、当然規模はアヤソフィアよりでかい。また、スレイマン大帝の作ったスレイマニエモスクよりも僅かにでかい。従って、イスタンブール最大のモスクということになる。ブルーというのは、天井や柱に青いタイルが使われているから、その名称がついた、と最近知った。しかし、実際は白が基調の質実なモスクである。イスラム的な、簡素な美しさを期待したほうがいい。

 入場も無料だし、イスタンブールに来たバックパッカーは、まずここを訪れると思う。ま、安宿街のスルタンアフメット地区のどまんなかにある遺跡だから、訪れて無駄足だった、という手間にもならないのが利点だろうか。ただ、せっかく行くなら、早朝がいい。日光がステンドグラスを照らすのは、朝だけだからだ。この時間は、観光客もほとんどおらず、モスク内に座っても文句を言われない。ゆっくりと、時間の流れを感じることができる静謐な空間を味わえるだろう。

(98年訪問)

 カーリエ教会 ★★★ 
  圧倒的なフレスコ画の迫力

イスタンブールの中西部に位置する、ほんとに小さな教会である。しかし、「知る人ぞ知るイスタンブールのハイライト」とも呼ばれているという。なぜだ? そんなに有名でもないのに。それは、この教会に残された見事なフレスコ画ゆえです。うーむ、たしかに、見事である。  

 フレスコ画、というのは、あんまりうまく説明できないけれど、モザイクみたいなキリスト教の宗教画、といったところでしょうか。アヤソフィアにも残されているが、カーリエのほうが数も多いし、保存状態もいい。アヤソフィアと同様、ここも、オスマンの征服後に宗教画は塗りつぶされてしまったが、のちに漆喰の下から見つかったのである。

 モスクに改造されたままのアヤソフィアでは、正直、ヴィザンツ時代の教会の雰囲気をしのぶは難しい。しかし、ここは違う。天井一面に残された、色とりどりのフレスコ画を見ると、まちがいなく、500年前にトリップできる。

 しかも、じつはこの教会は、たんなる田舎の教会ではない。オスマンの征服により、東方キリスト教会の首座であったアヤソフィアがイスラム寺院に改造されたしまった後、50年以上にわたって、コンスタンチノープルにおけるキリスト教会の首座の位置に置かれたのが、カーリエ教会なのである。創建は5世紀以前と推定されているが、はっきりとはわからない。現在残されている建物は14世紀のもので、フレスコ画は、1320年に完成したと言われている。

 すでに、ヴィザンツ帝国は最末期に入っていた。しかも、ラテンの征服からコンスタンチノープルを奪回したばかりだったので、過去の文明、文化は断絶してしまっていた時代である。しかし、それゆえに、過去の東ローマ時代とは違った、新しい宗教様式が、フレスコ画の特色になっているという。でも、あんまり詳しいことはわかりません。

 1510年、ときのオスマン皇帝バヤジット2世により、カーリエも教会からモスクに変えられてしまった。しかし、フレスコ画は、削られないままに、漆喰によって塗りつぶされただけですんだ。もしこのとき、フレスコ画が削られていたりしたら、今はなにも残されていなかったはずである。なぜ、ときの工事監督者は、削り落としを命じなかったのか。

 そこに、ドラマと謎を感じるのである。

(98年訪問)

 ギョレメ野外博物館 ★★★ 
  遺跡としては?

 カッパドキア、というと、白ーい大地にキノコみたいな奇岩が並ぶところ、なんていうイメージが強い。でも、ここも立派な遺跡地帯なんですね。ただの「変わった風景」ではないのだ。知ってました? 知ってた、ああ、そうですか。

 カッパドキアには、およそ1000ものキリスト教岩窟教会があったという。岩窟教会とは、岩をくり抜いて、そのなかを教会や修道院にしたもの。敦煌などと同じである。洋の東西を問わず、宗教関係者は岩を掘るのが相当好きなようだ。

 岩窟教会のなかには、例によって壁画が残されていたりするのだが、はっきりいって、カッパドキアで保存状態がいいところはほとんどない。なぜなら、この地にキリスト教が根付いていたのは、11世紀ころまでの話だからだ。以降は、トルコ民族の支配が続き、キリスト壁画はほとんど破壊されつくしてしまっている。したがって、いくつもの岩窟教会があるが、たいしたものは残されていない。唯一、見るに値するのは、ギョレメの野外博物館くらいだろう。

 ここには、岩窟をくり抜いた修道院が、約30ある。白と茶の隆起する奇岩群のなかに、みしみしっと集まっているのだ。その石窟をひとつひとつ見て回る。ローマ時代のフレスコ画が、もうほとんど見えないくらいに色褪せてはいるが、かろうじて残されているのである。ただ、はっきり言って、ただ一つの石窟をのぞいては、見る価値はほとんどないと言っていい。保存状態の悪い壁画なんて、見るのに時間がかかるだけで、圧倒的につまらないのだ。

 唯一必見なのが、カランルク・キリセ(暗闇の教会)。約800円ほどのエキストラチャージを取られるが、この中のフレスコ画の保存状態は群を抜いている。青をベースにしたキリスト教壁画が、石窟一面に、壁から天井から描かれているのだ。これは、とてつもなく美しい。「高い」などと言って、これを見ずして去る旅行者が多いが、この壁画を見ないなら、この博物館に来る意味なんてない。

 カッパドキアには、他にも、住居跡や修道院跡が無数に残されているが、いずれも遺跡としての雰囲気はたいしたことはない。きのこ岩をくり抜いた住居は、まあ入って見るぶんにはおもしろいが、深みがない。それは、ここに残されているのが、「住居跡」であって「都市遺跡」でも「宗教遺跡」ではないからだろう。遺跡っていうのは、やっぱり王宮や寺とかがあって、一人前なんだな、なんて思ってしまうのである。

 ただ、カッパドキアが、訪れるに値しない場所だというつもりはない。むしろ、奇岩の風景を楽しむ、くらいのつもりでくれば、とても楽しめると思う。見晴らし台の上に立って、隆々と白い大地が波打つ様を見ていると、時の経つのを本当に忘れてしまうのだ。

(98年訪問)  

 カイマクル・デリンクユ地下都市 ★★★ 
  世界で唯一? 本物の地底都市だ

これまで、何度もまがい物「地下都市」に騙されてきた。子供の頃、近所の悪ガキに、「地底人がいる」なんてそそのかされて行ってみたら、ただの学校の地下室だったり、テレビの川口浩が「ずずずん」というミュージックとともに入っていった洞窟は、「結局、伝説だけで何も見つからなかった」なんてオチだったり。

 イスタンブールだってそうだ。「地下宮殿」なんてすごいネーミングのところがあるから行ってみたら、ただの地下貯水池じゃないか! いいかげんいしろよ地下都市、なのであった。

 そこで、あまり期待もせずに、このカッパドキアにある二つの地下都市を訪れてみた。すると、おお、こいつはすごい、本当に地下都市ではないか! とびっくりしたのであります。

 まず、カイマクル地下都市は、カッパドキアの中心地域から、南へ20キロほどのところにある。推定で地下8階、総床面積は2・5平方キロもあるという。現在は地下4階までしか公開されていないが、厩があったり食堂があったりワイン醸造所まであったりして、もう本当の地下都市なのである。倉庫の大きさ、集会所の広さから推定して、約1万人が住むことができたという。

 なかはもちろん薄暗く、天井も低い。しかし、蟻の巣のように細かくいろんな部屋がある。迷路のようだ。そして、メイン通路を下がっていくと、どんどん奥へ進んでいく。通路には、敵の来襲に備えた仕掛けがある。奥の部屋へは、一本の通路しか通じないようになっていて、そこを閉鎖すれば、外からは入れないようになっているのだ。

 閉鎖のために、石器時代の巨大な貨幣のような円形の石が用意されている。その石を、側道から通路に押し出せば、閉鎖が完了する仕組みなのだ。通気口がしっかりしていて、井戸もあるので、地下の奥深くで何年も暮らせるようになっていたらしい。しかし、地底で何年も暮らしたくないよなあ。

 実際、ここでどれだけの人が、何年間暮らしていたかは不明である。というより、この地下都市がいつ、なんのためにできたかもわかっていない。6世紀頃のアラブの侵入に対し、キリスト教徒が立て籠もるために作られた、という説が有力だが、本当にこんなところで人が暮らしたのか、はわからない。だって、水と食料と空気があったって、薄暗いなかで何年も暮らせるわけがない、と思いませんか?

 だから、多分一種の避難所だったんだと思う。事実、なかで人骨などは見つかってないらしい。本当に人が暮らしていたのなら、当然、墓だって、なくてはならないはずだ。

 デリンクユ地下都市は、カイマクルから9キロ離れたところにある。こっちはさらに規模が大きくて、地下20階まであったと推定されている。現在は8階まで公開されていて、一番奥深い8階は、井戸の部屋になっている。7階には丸天井のひろーい部屋があり、修道院として使われていたような形跡がある。こちらのほうが、カイマクルよりも要塞性が強い。閉鎖ポイントが、いくつもあるのだ。

 カッパドキアには、このカイマクル地下都市と、デリンクユ地下都市のほかにも、いくつもの地下都市が見つかっている。地面が柔らかいので、地下を掘りやすい、という理由があったようだ。こんな本格的な地下都市は、おそらく世界でもここだけだろう。地底ファンには、是非おすすめしたい。

(98年訪問)  

 ワラム・カヤ・メザルラルの磨崖墓 (投稿) 
  幻想的な王墓たち

 アマスヤは黒海沿岸のサムスンから南へ100qほど行ったところにある、ヒッタイト時代からの歴史を持つ古い町です。この町を見下ろす山の北岸に数基の墓が彫り込まれています。これは紀元前3世紀ごろ、この地を統治していたポントス王族たちが残したものです。

 墓のつくりは、岩壁からカマクラを掘り出したところを想像して下さい。切り出した石に棺が置けるほどの室内をつくり、さらに岩壁と岩墓の間に人が一人通れるように隙間を作ってあります。磨崖墓の正面にはローマ風の柱もあり、当時はさぞ優雅だったと思われます。夜はライトアップされて更に幻想的です。

 ここは遺跡は好きだが、狭くて暗くてジメジメした雰囲気はもっと好きな人には一見の価値あり。市内にはモスクの地下で発見されたミイラを展示した博物館もあります。

 実は地中海沿岸にも似たような(こちらはイオニア様式の家屋式墓)形の墓がガイドブックに載っていたので、行ってみましたが(うろ覚えで申し訳ありませんが、たぶんフェティエだったと思う)、規模も小さくちょっと残念。遺跡にも写真映りってあるなと思いました。

(99年3月記・水沼)

 ハットゥシャシュ遺跡 (投稿) 
  ヒッタイトの都は山の上に

 スングルルからのミニバスでトルコの平原を30分ほど揺られてゆくと、オレンジ色の瓦が目にも楽しい、こじんまりしたボアズカレ村に着きます。ここは古ヒッタイトの首都が置かれていた所で、遺跡は岩だらけの山の上にあります。
 なぜそんな所を首都に選んだかというと、戦略上、有利な場所であったことと、一年中豊富な水が得られる場所であったためと言われています。全体図を写真などで見てみると、整然と区画されたこの遺跡が今から四千年前に築かれたとはとても思えないほどです。

 しかし今は石の基壇を残すのみで広々とした印象を受けます。ドンドンと石が積まれたあたりに有名なライオン門があります。風に削られ、すこし丸みを帯びていますが、魔除けの意味を込めて建てられたそうでなかなか勇ましい表情をしています。

 このハットゥシャシュ遺跡は、大きな割には建物などは復元されていないし、レリーフなども博物館に運ばれているか、たとえあったとしても複製だったりするので全体的に見どころ少なく、ちょっとがっかりです。しかし復元図で当時の様子を調べてみると、それはそれは壮大な城が建っていて、その規模は高さ1mから6m、厚さ8mにおよぶ壁で市街地を囲い、さらにその土台の上に粘土壁を建て増ししていたそうです。

 村には博物館もありますが、めぼしいものは皆アンカラに運ばれてしまい、発掘当時の写真などが遺跡ファンには興味深いかもしれません。

 ポアズカレ近くにはスフィンクス門で知られるアラジュホュック遺跡もありますが、私が訪れた時は公共の足がなかったので行きませんでした。今思えば無理してでも行けばよかったかなと思っています。

(99年3月記・水沼)

 ヤズルカヤ遺跡 (投稿) 
  ちょっと可愛かったヒッタイトの神々

 ハットゥシャシュ遺跡から北東に2q、私の足で1時間近く歩いたところにヤズルカヤの屋外神殿跡があります。夕方に歩いていったので着いたときには辺りはすでに薄暗くなってきて、とても不気味な雰囲気でした。

 ここはヒッタイト人にとって聖地だったところで、ヤズルカヤは「文字のある岩」という意味です。その名前のとおり多くのレリーフがこの岩壁に彫られています。

  大ギャラリーと呼ばれている灰色の岩壁には嵐の神や太陽神など神々の姿が浮き彫りされています。やがてトンネルがあらわれ、そこをくぐり抜けるとまた神域と呼ぶにふさわしい神聖な空間が現れます。そこには12神の行進やここを作らせたトゥダリヤW世のレリーフもあります。 ヤズルカヤに浮き彫りされている神々は西洋に出てくるトンガリ帽をかぶり、可愛い印象を受けました。 (99年3月記・水沼)

10 アナトリア文明博物館 (投稿) 
  ヒッタイトマニアには必見の地

 ここはヒッタイト時代のコレクションが豊富なことでは世界一。「こんなものまで持ってきたのか!」と驚愕するほど大きなレリーフがあります。
 
 アラジュホユック遺跡の初期青銅時代(紀元前三千年前)の墓から出土した、太陽と鹿などをかたどったスタンダードと呼ばれるが儀式用の飾りものが必見です。

 ここでは日本語で書かれた解説書が買えます。写真も豊富で訪れた際には是非購入することをお薦めします。

(99年3月記)

11 トロイ遺跡 (投稿) 
  日本語ガイドブックで楽しもう

 木馬で有名なトロイの遺跡。それを意識してか大きな木馬がお出迎えしてくれます。しかしあなどってはいけません。この木馬は大きさも木材も当時の資料を忠実に再現したものだそうです。私が行ったときはシーズン・オフのせいか、見学者が一人も居なかったので心ゆくまで静かな遺跡を回ることが出来ました。

 入り口に売店があり、そこではなんと日本語で書かれた遺跡のガイドブックが売っていました。「トロイア」というタイトルです(私が買った時でUS$8)。日本のガイドブックはトロイに関しては大ざっぱなのでこのガイドブックはお薦めです。

 なにしろトロイの遺跡は前三千年から後五百年まで、9つの都市が重なる複雑怪奇な構造になっているので、詳しい解説書がないと自分が今、何を目の前にしているのか分からなくなるからです。せっかく訪れたのにただ「すごい」という感想だけではもったいないですからね。

 「トロイア」の本は見学コースにそって解説してあるし、写真も多いので、「シュリーマンがプリアモスの財宝を掘り当てたところ」とか「トロイの木馬を運び込んだ城壁」などなどしっかりチェック出来ます。でも随分前の話なので、もう売ってないかもしれませんが…。

 トロイの遺跡は当時16mの高さを持った丘の上に築かれ、今、この丘は32mの高さになっています。つまり5000年の間に16mも地面が高くなったわけです。興味のある方は実際に訪れて確かめてみて下さい。

(99年3月記)

※水沼さんの参考文献(トルコ編内すべて) 「ヒッタイト帝国」 ヨハネス・レーマン 佑学社 「アナトリア文明博物館」 同博物館出版 「トロイア」 チャナッカレ博物館出版 「ひとりで行ける世界の本  トルコ・イスタンブール」日地出版 「トルコ」 ブルーガイド・ワールド 「地球の歩き方・イスタンブールとトルコの 大地」ダイヤモンド社  「王家の紋章」細川智恵子(実はイズミル王子ファン)

★今回も力作たくさんありがとうございます。トルコは遺跡の宝庫だけに、日本人には知られていない場所がいっぱいあるようですね。水沼さんは、どうもヒッタイトファンのようですから、その方面のさらなるリポートを期待します。ただ、残念ながら、トロイは「がっかり遺跡」としても名高いんですよね。こちらにも、「つまんなかった」という意見が結構寄せられています。念のため、付け加えときます。(管理人)

12 イサクパシャ宮殿 (投稿) 
  マチュピチュ、イースター島に匹敵!

歴史的にはたいした遺跡ではないかもしれないけど、トルコのドゥバジットにあるイサクパシャ宮殿はなかなか良かったです。イースター島やマチュピチュも行ったけど、雰囲気としてはそれに対抗できると思います。ただ保存状態なんかはとても悪いため、500メートルくらい離れて見たほうが良さそうです。近くにはノアの箱舟の遺跡(おそらくでまかせだと思う)もありますし。トルコ・イラン・アルメニア国境あたりには良い遺跡が多いと思います

(よしだ)

★トルコの黒海沿岸近辺はとても魅力的ですよね。でも、なかなか行きづらい!(管理人)





▲PAGE TOP