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ドイツの遺跡へ行くぞ!

神聖ローマ帝国が盛んだったドイツ。中世は各地に諸侯が分立しましたので、そのせいか、地方にいい城郭が残っています。

 ノイシュバンシュタイン城 ★★★★ 
  白亜のお城は美しすぎる!


(photo:Softei)
あまりにも有名は白亜の城。これほどな眺めて美しいお城はなかなかないです。

(1990年訪問)

 ヴュルツブルグの司教館 ★★★ 
  なぜここが「ドイツ1の遺産」なのか?



ドイツでもっとも有名な世界遺産といえば、この「ヴュルツブルグの司教館」。現地では「レジデンツ」という。なので、以下ここでもレジデンツと書く。

このレジデンツには、神聖ローマ帝国内の領主司教が住んでいた。領主司教というのは、政治的支配者と宗教的支配者が一体になった人物である。日本でいえば、中世の比叡山や、戦国時代の本願寺みたいなものだろうか。

その領主司教が住んでいた館が、この「レジデンツ」である。つまり、ドイツの地方領主の居館だ。

ヴュルツブルグのレジデンツが有名なのは、天才建築士ノイマンが設計した建物の、その建築の美しさゆえらしい。おまけに、ティエポロの世界最大の絵が、階段室の天井画として残されている。ティエポロといえば、ヴェネチア派の画家のなかでも筆頭格だ。名画ファンならずとも、一見の価値があろうというものだろう。

ということで、朝一番で、司教館に入る。が、非常に残念なことに、ティエポロの天井画は修復中であった。本当に残念である。このときは、ワールドカップを翌年に控えており、ドイツの至る所が工事中だった。ここも、おそらく来年のワールドカップに備えて修復しているんだな。悲しいくらい工事現場な階段室だった。


ではでは、ティエポロは諦めて、「天才ノイマンの館」を楽しませてもらおうじゃないか、と期待して奥に入る。
ところがところが。

正直いって期待はずれであった。皇帝の間とか鏡の間とかがあるのだけれど、皇帝の間は彫刻が美しいが、たいした規模ではないし、鏡の間は団体客以外入れなかった。

これが皇帝の間。


美しいし、いけばそれなりに感動はするのだけれど……。

置いてある調度品や内装も、貧相とはいわないが、たいしたものは残されていない。たとえば、寝室。

うーん。領主の館にしては安っぽくないですか?てか、この程度のものなら、かなり世界中で見飽きたのですが……。

ということで、それなりに立派なのだが、しょせんは、田舎領主の館である。この程度の宮殿なら、ヨーロッパにごろごろあるのではないかと思う。

期待せずにいけばそれなりの感動はあると思うが、「ドイツ屈指の世界遺産」と聞いていくと、かなりがっかりすると思います。

ではなんで、ドイツ有数の世界遺産がこんなにしょぼいのだろうか。

もちろん、ヴュルツブルグのレジデンツ程度の世界遺産は、ヨーロッパ中にいっぱいある。だから、これが世界遺産指定されること自体には、おかしさはない。

ただ、不思議なことに、ドイツでは、この程度の歴史的建造物は多数あるにもかかわらず、そのほとんどは世界遺産になっていない。さらにいえば、これよりもっとスゴイ宮殿やお城も、世界遺産に指定されてないのである。なのに、ヴュルツブルグのレジデンツだけがなぜ、世界遺産なのか。

その疑問は、展示をみていて解けた。以下の写真である。

 この司教館は、第二次大戦時、連合軍による空爆で徹底的に破壊されたのである。で、それを修復して修復して、往時の姿を復原したのが、いまあるレジデンツだ。

「修復前」「修復後」写真もある。


つまり、ここは「危機遺産」だったのだ。

価値ある歴史建造物を復原して保存するのは世界遺産の大きな目的である。その目的を達成するために、ここは「危機遺産」として世界遺産に指定された。言い換えれば、破壊されたからこそ世界遺産になったのだ。そして、危機がさったいまも、世界遺産のままなのだ。

僕はこの後、いくつかのドイツ内の城や宮殿を見て回ったが、前述したとおり、ヴュルツブルグのレジデンツよりよほど歴史的価値の高い建物が、世界遺産に指定されずにいた。

つまり、ドイツにおいては、世界遺産とは、観光装置というよりは、危機に瀕している歴史的建造物の保護のためのシステムなのではないか。

そう気づいて眺めてみると、ドイツの世界遺産はきわめて地味である。ケルンの大聖堂のような有名なものもあるが、修道院や炭坑など、観光的にはインパクトに欠けるものが多い。ノイシュバインシュタイン城やブランデンブルグ門、ローデンブルグ旧市街のように、世界的に有名な歴史的建造物が、世界遺産に含まれていない。

世界遺産に対するこうした考え方は、むしろ正しい。世界遺産の発祥自体が、こういう危機的な歴史的遺産を後生に残すためのプロジェクトだったからである。ただ、時代を経て、世界遺産は、国連が認定する「公式歴史・文化・自然文物」のようになってしまっている。そうした趨勢に流されていないのが、ドイツ、ということになるのだろうか。

あるいは、僕のような者では気づくことのできない、他の事情があり、僕は的はずれなことも言っているのかもしれない。

ただ、姫路城、京都、奈良、日光などと並ぶ、観光地を網羅しようとする日本の世界遺産のラインナップを見ていると、彼我の差を思わずにはいられませんでした。日本にも、もっと守るべき「危機遺産」があるのではないか。そんな気にさせるドイツナンバーワンの世界遺産でした。

(2005年訪問)

 マリーエンブルグ要塞 ★★★ 
  楽しい要塞基地



遺跡ファンには、レジデンツよりももっと楽しい場所が、ヴュルツブルグにはある。マリーエンブルグ要塞である。

写真を見るだけで、ちょっといいでしょう。ここは、18世紀にレジデンツができるまで、領主司教の居城だったところだ。

歴史的には、紀元前からケルト人がこの山に住み着いていたとされるが、現在残っている建物で最古のものは、8世紀に教会として作られたものだ。本格的に要塞が築かれたのは13世紀初頭のことである。つまり、中世の約400年間、ここはヴュルツブルグの政治的軍事的中心だった。

なかなか堅牢な要塞で、歴史をひもといてみても、陥落したのは1度だけ。スウェーデン王に1631年に奪われたときである。ただ、そのときに略奪に合い、これ以前の貴重な文物は、ほとんど持ち去られてしまったという。いまでも、そうした蔵書などは、ウプサラという、ストックホルム郊外の街に保管されている。

さて、山をてくてく登り、城門をくぐる。


内部は、領主館博物館とフランケン博物館に分かれている。前者は、主に往時の領主の生活を再現したもので、後者は文物館だと思っていい。ただ、ここも英軍の空襲によってかなり破壊されたので、その建築物などは復原されたものがほとんどのようだ。

領主館博物館の内部は、よくある欧州の宮殿風。巨大な緞帳があったり、テーブルやベッドなどが置かれ、生活風景や執務室が再現されている。



正直、内部展示はさほどではないが、古い時代の要塞を歩いているので、建物をきょろきょろしていると楽しい。

フランケン博物館は、ドイツフランケン地方の文物を集めていることからこの名が付いた。ただ、第二次大戦の英軍空襲でほぼ全壊し、戦前の展示品の半数以上を失ったため、現在の展示品は戦後集められたものが多い。

そのため、要塞とはあまり関係のないものが多く混じっている。つまり、普通の博物館だ。日本でも、どこかの城跡に郷土博物館が建てられたりするが、そんな感じだ。

とはいえ、ここはリーメンシュナイダーという彫刻家の作品を集めたことで知られている。代表作の悲しみのマリアもここにある。

なかなかいい表情でしょ?


リーメンシュナイダーは、16世紀の人物だが、生前はさほど評価されず、見直されたのは近代になってからだという。ちょっとした悲劇の人物かもしれない。

あとは、武器とか肖像画とか、そういう展示が続くので、時間にあわせてみればいいでしょう。

 さて、この要塞でいちばんおもしろかった看板がこれ。


この要塞、高い位置にあるのだが、柵などは基本的にない。なので、崖に近寄るな落ちるぞキケン!ということらしい。危険感がよく漂っていて素晴らしいです。

(2005年訪問)

 ホーエンツォレルン城 ★★★★ 
  そのまんま映画の修道院


ホーエンツォレルンといえば、かつてのプロイセン王家である。

南ドイツの地方貴族だったが、1415年にブランデンブルグ辺境伯となり北ドイツを獲得、選帝候の一角となった。その後、フリードリッヒ大王など名君に恵まれ、1871年にヴィルヘルム1世が初代ドイツ皇帝となるのである。

そのドイツ一の名家、ホーエンツォレルン家の発祥の地が、ここホーエンツォレルン城である。日本でいえば、徳川家の岡崎城、みたいな感じだろうか。

岡崎城はとっくに取り壊されてないけれど、このホーエンツォレルン城は、現存する。もっとも現在の城は1867年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世によって建設されたもので新しい。明治維新の時代に建てられたものだから、歴史的な価値はやや低いかも知れない。

とはいうものの、あのホーエンツォレルンの発祥の地である。丘の上にそそり立つ姿も遺跡的にはそそられる。



さて、ホーエンツォレルン城の内部は、ガイドツアーでしか回れない。

なぜなら、このお城には、まだ人が住んでいるからである。住んでいるのはホーエンツォレルン王家の末裔だそうだ。

なんと、ドイツでは皇帝の末裔が、ゆかりの古城にいまだに住み続けているのである。

ドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム3世は、第一次大戦で敗れ退位したが、殺されなかった。革命でなく、敗戦による退位だったからだろう。ヴィルヘルム3世はオランダに亡命し、後に復位を狙ってナチスドイツに協力した。ヒトラーの治世中に死去したが、ヒトラーは盛大な葬儀でこれを弔ったという。ちなみに、最後の皇太子はナチの党員だった。

その後、どういう経緯をたどったのかは調べきれなかったが、同家は、この発祥の地の城は奪われなかった。そして、いまだにホーエンツォレルン王家の末裔が住んでいる、というわけだ。


さて、話を戻す。

城内の見物は、ガイドツアーでしか回れない。最初に案内されるのが、壁一面に描かれた家系図だ。


なんだかよくわからないが、ものすごい。

内部は、薄暗い。雰囲気はヨーロッパの古城や宮殿によくある調度があつらえられた天井の高い部屋が続く。書斎、執務室、寝室などを見ることができるが、豪華というわけではなく、どちらかというと質実剛健な感じがした。

帝政時代に王家がこの城を居城にしたわけではないから豪華である必要はなかったのであろう。ここが行政の中心として機能した時期があったとしても、地方領主の館程度の役割しかなかったのではないか。

ここは、寝室。


ここは、お茶を飲む部屋。


これが、現在の王家の世継ぎ。


地下には、宝物室があり、プロイセン王家のお宝を拝見できる。なかでも王冠はダイヤとサファイヤがちりばめられ、かなりの価値がありそうだ。


城のうち、見られるのはおそらく2割程度。大部分は見ることはできない。人が住んでいるのだから仕方あるまい。でも、そのかわりというわけでもないが、非常に手入れはよく、保存度は高い。王家という格式の高さもあり、おすすめしたいお城である。

(2005年訪問)

 ルートヴィヒスブルグ宮殿 ★★★★ 
  ドイツのヴェルサイユ?

ルートヴィヒスブルグは、シュツットガルトから電車で20分ほどの街である。

ここには、「ドイツのヴェルサイユ宮殿」とも称される宮殿がある。ルートヴィヒスブルグ宮殿だ。18世紀前半に、ヴュルテンベルグ公爵のエベルハルト・ルードヴィヒスブルグによって建設された。ルードヴィヒスブルグが建設したからルードヴィヒスブルグ。なんてわかりやすいんでしょう。

駅からタクシーで5分。歩いても15分ほどだそうだが、道がよくわからないし時間もなかったのでタクシーを使った。宮殿は、街の中に突然現れる。

山吹色の壁。煉瓦色の屋根。バロックを特徴づける白い角張った柱。ホンモノのベルサイユに較べると重厚感はないが、広々とした中庭を囲むように建つ宮殿は、たしかに優雅だ。建設時期も、ベルサイユより数十年遅れただけなので、デザインも似ている。


そもそも、ビュルテンベルグ公というのは、このあたり、ドイツ中南部の有力な勢力であった。もちろんフランスのブルボン家などに較べれば田舎領主だが、それでも、1744年に領地を継承したカール・オイゲン公の時代には、華やかな宮廷生活が営まれ、ルードヴィヒスブルグは繁栄する。

その後、19世紀初頭、フリードリヒ2世の時代になると、ビュルテンベルグ公は選帝候のひとりとなる。ナポレオンの圧力に屈したが、そのどさくさで周辺の小国を併合、1806年には「ビュルテンブルグ王国」になり、公爵から国王に昇格する。ナポレオンと同盟し、遠くロシアにまで出兵するが、ナポレオンが没落するや、反ナポレオン軍に参加、ウィーン会議でも領土を守るなど、なかなかな政治上手な国であった。

ルードヴィヒスブルグ宮殿は、18世紀末には夏の離宮に格下げとなり、首都ではなくなってしまう。さらに、同王国がドイツ連邦に加盟し、皇帝を仰ぐようになってからは、ドイツのたんなる地方となってしまう。そして1918年、第一次大戦の敗北に伴うドイツ帝国解体で、当時の国王ヴィルヘルム2世が退位、王国は滅亡してしまう。

という歴史的があって、この宮殿では、ナポレオンに関する展示が意外と多い。宮殿にまつわる世界的に有名な歴史人物が、ナポレオンしかいないからかもしれない。

見学コースは複雑で、レジデンツ(いわゆる宮殿見学)の他、建物内にカール・オイゲン博物館、モード博物館、バロックギャラリーの見学入り口がある。後者4つはたいしたことないので、レジデンツだけ見ればいいと思う。なので、ここから先はレジデンツの話である。

階段室を上がって、近衛兵の間を抜けて最初に大きな部屋に出る。これが「大理石の間」と呼ばれたところで、豪華なシャンデリアが特徴。


式典によく使われたそうで、ナポレオン歓迎式典もここで行われたとか。ちなみに、広間の中央で手を叩くと、「鳥の羽音」が聞こえるそうである。やってみたが、まあなんとなく音がしてヨーロッパの鳥というのはこんな感じなのだろうかと。

さて、もっとも美しいと思ったのが、その先にある「謁見の間」である。やわらかい赤色を基調とした部屋で、中央に玉座がある。


玉座はフランス風アンピール様式だそうで、つまりナポレオン当時のフランスの流行を取り入れた部屋だ。こんな部屋があるから、「ドイツのヴェルサイユ」なのかも知れないなあ。次の会議の間は金刺繍の壁の派手な部屋で、ナポレオンがここに滞在したそうな。って、またまたナポレオンである。

いちいち説明していたらきりがないが、あと興味深かったのが「王妃の寝室」。

 
写真がぼけていてすんません。ここは壁一面緋色という高貴さ丸出しの部屋で、女子が「きゃーカワイー」などと叫びそうな感じである。だが、おもしろいのは部屋にある便器。持ち運びできる椅子型の便器が置いてあるのだ。

よく知られている話だが、ヨーロッパの宮殿にはほとんど便所というものがない。で、こうした便器を使っていたということだ。こんな派手な建物を造っておいて、便所がなく、汚物は便器に入れて窓からポイ、なのである。

東洋の宮殿では、故宮だろうがポタラ宮だろうが姫路城だろうが、便所はちゃんと備わっていた。この件に関していえば、ヨーロッパ人は、間違いなく不潔な見栄っ張りである。

ということで、わりと典型的なバロック様式の宮殿で、フランスの影響を得てやや派手な作り、といったところが、見学した感想でしょうか。

部屋は全部で452室あるが、現在はそのうちの70室を見学できる。

ドイツに現存する宮殿のなかでは高い保存度を誇る一級の建築物だとは思いますが、わざわざくるほどのところでもないかな、というのが正直な感想です。美術品で特筆すべきものがない、というのも弱いかな。

(2005年訪問)




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