1 仏国寺(慶州) ★★★
韓国ナンバー1名所だけれども……
小学校の遠足が鎌倉。修学旅行が日光。中学の修学旅行が京都・奈良・飛鳥。これは神奈川県民だった私の場合だけかも知れないけれど、日本の生徒というのは本当に寺を回らされている。必然的に、寺を見る目は肥えてくる。そう、日本人は寺にうるさいのだ。
そんな我々から見ると、この仏国寺は、少々物足りない。いや、なかなか立派な寺なのだけれど、これが韓国第一の名刹と言われると、「ちょっとなあ」と唸ってしまうのだ。
創建は525年というから、歴史は古い。朝鮮半島が三国時代だった頃、新羅の首都慶州に建てられた。新羅の半島統一後、8世紀後半に整備され、以後、韓国を代表する寺院として知られてきた。
とはいうものの、同時期に建てられた法隆寺や薬師寺を知る日本人からみると、それほど感嘆はしないだろう。なぜなら、境内はそこそこ広いが、建物そのものはすべて李氏朝鮮以降のもので、第二次大戦後復興されたものも少なくないからだ。石垣は古代のものが残されているが、史跡としての価値は、それほど高くないのである。
とはいえ、雰囲気はなかなかにいい。山の中腹に建てられているだけに、緑に包まれた静けさが古寺のたたずまいを引き立てている。そして伽藍配置は日本の奈良時代の寺院と似ていて、日本と韓国が隣国であることを実感することができる。タイやミャンマーなどはもとより、中国で寺を見てもそういうことはあまり感じないのだけれど、さすがに韓国は近いのだ。
また、この寺からバスで15分ほどいった山懐に、石窟庵という遺跡がある。読んで寺のごとく、岩に掘られた石窟で、真っ白な如来像など数体の石仏が残されている。これは、規模は穴一つで小さいのだけれど、保存度が高く見事である。期待しすぎるとがっかりするかも知れないが、こういう小さくてきれいな石窟というのは、趣があっていいのではないか。
(1999年訪問)
2 昌徳宮(ソウル) ★★★
最後の王妃が住んだ家
昭和天皇がまだ皇太子であったころ、后には三人の候補者がいた。一条朝子(ともこ)、久邇宮良子(ながこ)、梨本宮方子(まさこ)である。結局、良子(現皇太后)に決まるのだが、それに至るまで、相当の波乱があったのは知られている事実である。良子が色盲だとして山縣有朋が強硬に反対し、宮中某重大事件と呼ばれるほどの騒ぎになった。
このとき、じつは、3人のうち最有力とされていたのは方子であったという。ところが、方子が医師の診察を受けると石女(うまずめ=子供の産めない躰)だということがわかり、皇太子妃争いから脱落したとされている。これは、本人が後年自叙伝で認めているので、事実とみていいだろう。
石女と判断された以上、自分には嫁ぎ先がない。方子はそう考えたに違いない。ところが、降ってわいたようた縁談が発表される。なんと、かつての李氏朝鮮王家の王世子の李垠(イ・ウン)に嫁ぐことになったのである。婚約が発表されたのが1918年の暮れ。韓国併合の8年後のことだ。
この結婚は、朝鮮王家を絶えさせようとする日本政府の策謀と考えるほかない。もちろん、当の李垠はそんなことは知らないし、大体、彼には別の婚約者がいて、彼の知らないところで勝手にそれが破棄されて、いつの間にか決まっていた縁談であった。当時日本の陸軍士官だった李垠は、1920年に方子と結婚式を挙げた。
ところがところが。どういうわけか方子は子供を産んでしまった。しかも男児が二人である。長男は生後8ヶ月で不審死を遂げるが、残りの一人はきっちりと生き延びた。日本の策謀は失敗し、不妊と主張した医師3人が処罰されたという。
とまれ、生き残った朝鮮王家の血筋である李垠は、戦後、日本国籍を離脱。ところが、韓国に帰国を拒否され、日本でただの在日韓国人として苦労する羽目になった。方子は、戦後も李垠に添いとげる。1963年、李一家はようやく韓国に帰国できたが、すでに李垠は動脈硬化で植物人間化し、7年後に世を去った。
前置きが長くなったけれど、この日朝史の波間を生きた方子が、韓国で晩年を過ごしたのが昌徳宮の楽善斎という建物である。漆喰に黒瓦、韓国の伝統的建築様式のこの建物は、宮と呼ぶには質素な感じがする。規模もそれほど大きくないが、もともと昌徳宮の一つの建物にすぎないのだから、それは当然なのかもしれない。小さいながらも、清潔感のある中庭が印象的だ。
昌徳宮自体は、1405年に作られた離宮である。現存する建物の主要な物は景福宮から移設されたものが多いが、緑が多い落ち着いた宮殿だ。ガイドが付くので自由に回ることはできないが、ソウルでは一番いい史跡なのではないかと思う。
方子が死んだのは1989年4月30日のこと。楽善斎の一室で、静かに息を引き取ったそうだ。いまからわずか10年ほど前のことである。楽善斎は静かすぎて、その片隅に腰掛けていても、方子の激動の人生を思い描くのは難しい。そんな女性が実在して、この建物に住んでいたこと自体が信じられない気がする。だが、彼女はこの建物で余生を送りながら、晩年を韓国内の慈善事業に力を尽くした。
彼女の葬儀は、「朝鮮王家」の扱いで行われた。彼女の息子は存命しているらしいが、今後、同様の葬儀は二度と行われることはないという。つまり、500年続いた李朝を締めくくったのが方子であり、この楽善斎は、その最後の現場なのだ。
(1999年訪問)
3 板門店(京畿道) ★★★
現役遺跡?を見に行く
ここを遺跡と呼ぶのは躊躇するし、実際、遺跡じゃないでしょう。現役の軍事境界線なんだから。ただ、朝鮮戦争が休戦となったのは50年近く前なので、僕らの世代としては、朝鮮戦争も休戦協定も、実感としては歴史の話になっています。だからまあ遺跡に含んでもいいんじゃないかと、思うこともないのだけれど、つまり要するに、書いてみたいので紹介します。
いうまでもなく、板門店は南北朝鮮の軍事停戦委員会の本部があるところだ。軍事分界線上に青い建物が並び、そのなかで双方の代表が会談などを行っている。朝鮮戦争はいまだ終結はしていないので、ここはまさしく戦争最前線。緊張と興奮がみなぎるところ、ということになっている。
が、誤解をおそれずに言うと、我々旅行者にしてみればただの観光名所だ。期待したほどの緊張感はないし、われわれ日本人は南北朝鮮両国から行くことができるので、「おお、向こうは未知の国」と興奮することもない。両国とも板門店を観光客へのプロパガンダに利用している側面もある。ま、深く考えないで行けるところなのだ。
さて、私は最初に北から行き、次に南から行った。
北朝鮮から行ったときは、すごく簡単で、平壌からツアーバスで高速道路をびゅっと走っているうちに着いてしまう。「命の保証はしません」なんて誓約書にサインすることもしないし、写真撮影もまったく自由、兵士を掴まえて握手して記念撮影なんぞをしながら、青い建物のなかに入ったりした。韓国の悪口も特になし。まあ、これは、日本人に対して言っても無駄、と思っているのかも知れないけれど。
ちょうど我々が訪れたとき、南からの観光客と遭遇して、こっちは「おお〜い」なんて手を振ったのだけれど、先方の反応はなし。資本主義者は無愛想だなあ、なんて冗談を飛ばしたけれど、南からの観光客は「北の人に手を振ってはいけない」と言われているんですよね。どうしてだろう?
実際、ここは、韓国から行くときのほうがいろいろうるさい。汚い格好はダメ、非武装地帯には行ったら写真撮影は原則禁止、バスを降りたら2列縦隊、などなど。小学校の遠足並の要求をされた。滞在時間も15分ほどにすぎない。
ま、北朝鮮は入るのが大変なので、「板門店は北から行くべし」なんてことをいうつもりはないけれど、北から入ったときの方がなにかと自由で、時間もたっぷりあったのは驚きです。もちろん、それだからといって、北のシンパになったわけではないけれど。
ちなみに、国連軍と北朝鮮軍が休戦調停を行った場所は、板門店の北800メートルほどにある建物で、現在は北からしか行くことができない。入り口にどど〜んと、「お笑い北朝鮮」の表紙にもなった絵が飾ってあるのが印象的でした。そこでの説明によると、板門店は、「アメリカが朝鮮人民のまえに膝を屈して停戦協定に調印したところ」だそうです。
ちゃんちゃん。
(北:1996年、南:1999年訪問)