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イエメンの遺跡へ行くぞ!

 ここ数年、バックパッカーの間でブームになっているのがイエメン。アラビア半島の突端にあるこの国には、歴史的建造物が豊富です。  それには理由があります。
 まず、イエメンはアラブ文明の発祥地であること。そして、辺境にあるために古い文化が残されたこと。さらに、石油資源に恵まれなかったために、他のアラブ諸国に比べ、近代化が遅れていること。

 とくに、三番目の理由が大きいでしょう。他のアラブ諸国がオイルマネーのおかげでビルが建ち並ぶ都市ばかりになってしまったのに対し、イエメンは発展が遅れ、中世の街並みが残されたのです。

 建物ばかりではありません。人にもまた、古くからの伝統が残されています。民族衣装に身を包んだ人が、これほど多いアラブ国家もないでしょう。男性の多くは刀(ジャンビーア)を腰に差して歩いています。ジャンビーアを差し、アラブ服を来た男が、サナアの旧市街を歩くさまは、まるっきり中世です。

 世界遺産こそ3カ所だけですが、イエメンにおいて、世界遺産はあまり意味をなしません。それより多くの見所が、この国にはあります。

 残念ながら、外国人を狙った誘拐事件が多発し、安全な観光国とはいえません。ただそのかわり、どこかの先進国のような強盗・窃盗事件は非常に少ないです。また、誘拐事件といっても、イスラム原理主義者の行為は少なく、ほとんどが政治的ゲームに近いもので、南北統一後、殺されたのはアメリカ人1組だけのようです。つまり、そんなに心配する必要もないと思います。

 首都サナア以外へ陸路移動する際には、パーミションが必要です。これが面倒なのですが、一回役所に行ってとればいいだけなので、我慢しましょう。また、北部地域などは、旅行者単独での行動が許可されていません。それ以外は、ほとんど自由です。

 国内移動には、飛行機、バス、乗り合いタクシーを使います。ただ、飛行機はサナア・アデン間以外は毎日運行ではなく、あんまり使えません。バスも一日1〜2便で、チケットオフィスもよく閉まっているため、使い勝手が悪いです。一番ポピュラーな移動手段は乗り合いタクシーです。人数が集まらなければ出発しないのが難点ですが、旅行者が移動するようなメジャーな区間なら、そんなに待つ心配はないでしょう。ただし、本来6人乗りのプジョーのワゴンに9人も詰め込まれますから、はっきりいって窮屈です。でも大丈夫。人間、多少のことは耐えられるものです。幸いイエメンはそれほど広くなく、幹線道路はよく整備されているため、乗り合いタクシーの移動時間は、だいたい5〜6時間です。

(2012年追記)
2011年の「アラブの春」の影響を受け、旅行者が安全に旅行できる状態ではなくなりました。早くもとの平穏な国に戻ることを祈ります。


 シャハラ ★★★★★ 
  生きている天空都市



 イエメン観光のハイライト。それは、サナアの旧市街でもシバームの摩天楼でもありません。ここシャハラです。

 シャハラは、イエメンの首都サナアの西北163キロの位置にあります。2600メートルの山のてっぺんにある街で、麓の村との標高差は約1400メートル。つまり、屹立した山の頂に街があるわけで、これこそ天空都市、まさに「生きているマチュピチュ」というわけです。

 上の写真の、山のてっぺんのギザギザが、シャハラの街。なんでこんなところ住んでいるの?というような立地です。

 その答えは、軍事的な理由によります。イエメンでは、部族間の抗争が激しく、各部族は、防衛のために山の上に街を作っています。シャハラは、その最たるもの、というわけで、ここまで究極に山のてっぺんに街を構えれば、誰に攻められても持ちこたえられるだろう、ということなのです。

 実際、歴史的に、シャハラは無敵でした。16世紀、オスマントルコ帝国がアラビア半島の統一目指して侵攻してきたときに、シャハラはレジスタンスの拠点となりました。当時無敵のトルコ軍も、このシャハラだけはどうにも攻めあぐね、オスマン期全体を通じて、シャハラは独立を守り抜いたそうです。

 その後、1960年代は、イエメンは王政派と共和国派に別れて内戦に突入するのですが、シャハラは王政派の軍事拠点になりました。しかし、その際は、エジプトの援護を受けた共和国派が空爆を実施、シャハラは大きく破壊されました。王政派はついに崩壊し、国王はイギリスに亡命しています。

 とにもかくにも、シャハラは、イエメンを代表する山上都市といえるのです。

 21世紀の現在でも、シャハラにたどり着くのは容易ではありません。サナアからたった163キロなのですが、行き着くには丸一日かかります。途中のホウスという町(サナアから118キロ)まではすぐなのですが、残りの45キロの道路が、ものすごい悪い。麓の街からの上り坂は、こんな感じ。

 4WDでなければ登れないし、正直ちょっと怖いです。私は、年代物のトヨタのトラックの荷台に乗って、1時間半も揺られました。

 こんな山のてっぺんに、現在でも3000人もの人が住んでいます。街には学校も病院もあり、地方政府の建物らしきものもちゃんとありました。集落ではなく、立派な「都市」なのです。


 広大な段々畑があり、この農業によって住民は糧を得ていたようです。ただ、段々畑は、最近はカート(イエメンの嗜好品)栽培に使われているようで、食料はトラックによって麓から運ばれているようでした。

 街には八百屋もありました(左)。


 水は、街のあちこちにあるため池(上右)によって賄われてきました。イエメンはアラブの国ですが、意外と降水量は多く、これでなんとかなったようです。高地であるため蒸発が少ないのかもしれません。

 最近、日本の無償資金協力(1997/98 JICA)水道整備計画で上水道も引かれました。麓の街から、水を山上までポンプで引き揚げています。下の写真が、貯水タンクです。水道を引いてくれた民族ということで、シャハラでは、日本人は好意的に扱われています。いちおう電気もありますが、しょっちゅう停電しますので、あんまりあてになりません。

 シャハラの街は、二つの山頂に別れて存在しています。その二つの街を結ぶ橋が、これ。17世紀に建設されたそうです。当時の技術力の高さを物語っています。

 とはいえ、シャハラ全体が、高い技術力というわけではありません。シャハラには5階建てくらいまでの建物がありますが、どれも土と石を組み合わせただけの簡単な建築です。イエメン山岳民族の中世建築技術の典型例だ、と書いてある書籍もありました。

 ここは、遺跡ではありませんが、この街並み、立地を考えれば、十分に世界遺産級です。この不便な土地に、いまでも人が住み、生活が続いていることには、驚きを禁じ得ません。「生きている大遺跡」だと私は思います。そういう意味ではマチュピチュよりもすごいかもしれません。世界遺産にならないのは、例によって、「政治的理由」でしょう。世界遺産は政治的であり、たんに「素晴らしい」ということだけで世界遺産に指定されるわけではない、ということは、別記したとおりです。

 2006年現在、シャハラに自力で行くことはできません。この街に入るには、必ず部族民の運転するクルマに乗らなければならないという掟があります。治安は悪くないのですが、部族同士の抗争などの紛争は日常的に起きているようで、イエメン政府は、シャハラへの外国人の単独旅行を許可していません。そのため、サナアで代理店にツアーを組んでもらうしかありません。クルマを借り切り、1泊2日で130ドル程度が最低価格です。

(05年12月訪問)

 サナア ★★★★ 
  イエメンで一番人気の理由


「世界でもっとも古い街」。それがサナアのキャッチフレーズです。正確にいうと「人類が住み続けている最古の街」ということらしい。

 伝説の時代まで歴史をさかのぼると、ノアの箱船の時代になるそうで、ノアの息子の一人のサムという男が、この街を作ったということです。サムが作ったからサナア。

 史実に基づくと、だいたい紀元3世紀頃まで確認できます。当時はシバ王国がアラビア半島南部を支配していましたが、そのときにシャアル・アウタルという王がサナアに城壁を築いたことが史書に記されています。約1800年前のことです。

 1800年前ならば、世界最古の街、とは言い得ないのですが、そのあたりの理屈は、僕にはあまりよくわかりません。当時すでにローマはあったし、ローマはそれ以来人類が住み続けていますから、当然サナアより古い気がします。だから、キャッチフレーズの意味をあえて斟酌すると、古い建物がそのまま残っている人類最古の街のひとつ、程度の認識でいいのではないかと思います。

 サナアは広い街ですが、遺跡といえるのは旧市街に限られます。ここには、お菓子の家みたいな搭状の建物がずらりと並んでいます。サナアの魅力は、古さというよりは、この搭状建築の街並みでしょう。

 この搭状建築は、だいたい4〜6階建て、下層階は石造りで、上層階は土煉瓦でできています。搭状建築自体は山岳イエメン全土で見られるものですが、サナアは装飾が美しい。さまざまな幾何学紋様を組み合わせており、そのデザインを見ているだけで飽きません。

 内部は、下層階が家畜室や食糧室、それから社交用階、家族階と続き、最上階がパーティーを行う娯楽階、となっています。もちろん、実際に人が住んでいる家ばかりなので、内部を見ることはなかなかできません。ただ、搭状建築を使ったホテルが何件かあるので、泊まることはできます。残念ながら、ホテルはホテルに改造されているので、実際の暮らしぶりを体感することはできませんが。

 この写真は、マフラージという、パーティ用の部屋です。ここで、カートという嗜好品を噛むのが、サナアの社交です。
 
 なぜイエメンで搭状建築が多いのか、という理由ですが、城壁に囲まれた面積が狭く、城内に多くの人口を収容するために居住スペースを立体化してきた、といえるようです。現代の都市と同じですね。土地がないから空間を目指す、ということです。

 サナアの楽しみ方は、この旧市街を散歩し、いくつかのホテルの最上階にあるカフェでお茶を飲みながら、展望に見惚れる、ということでしょうか。大きなスークもありますから、そぞろ歩くのもいいでしょう。上述したように、ジャンビーアを差した男性たちが中世の雰囲気を醸し出しており、歩いているだけで愉しくなる街です。

 イエメンを旅した人の多くが、「サナアがいちばんいい」といいます。雰囲気、人間、過ごしやすさ、そういうものを総合すると、イエメンで一番快適な街がサナア、ということです。僕もこの意見に賛成です。

(2006年12月訪問)

 シバーム ★★★★ 
  砂漠の摩天楼

イエメンで最も有名な世界遺産といえば、ここシバームでしょう。「砂漠の摩天楼」といわれる高層建築物は、「なぜこんなところに高いビル群があるのか」と思わせるに十分な迫力です。

 こんな建物が、砂漠の中にどどーんとあったら、不思議ですよね。

 さて、このシバーム。歴史は古い。紀元前から繁栄し、3世紀にはハドラマウト王国の首都となりました。そのころ、当地は乳香貿易で栄えたのだという。乳香ってのは、香料の一つですね。いまでもイエメンの特産品の一つです。それはさておき、シバームはその後もハドラマウト地方の貿易中心地として繁栄を続け、それは大航海時代が訪れる16世紀まで続きました。

で はなぜ、シバームはこのような「高層建築」になったのでしょうか。その答えはサナアと同じで、人口が増えすぎたときに、城壁を拡張するのではなく、建物の高層化を選んだ、ということのようです。さらに、ここは涸川のほとりに位置し、たびたびの洪水に悩まされました。そのため、洪水時でも避難しやすいように、高層建築が作られた、という理由もあるそうです。

手前を流れているのが涸川。これが、たびたび氾濫したといいます。

街の中の様子はこんな感じです。

ごらんのように、山羊が放し飼いされています。街の中で山羊なんて飼わなくてもいいのに…。という気はします。そして、山羊のおかげで、街は非常に「においます」。うんちがごろごろしているので、注意して歩かないといけません。写真をよく見て頂ければおわかりのように、道はゴミだらけ。ここだけではありません。この街は、ゴミがあふれています。

建物の中はこんな感じです。

ここは、街に一軒だけある博物館で、内部を公開しています。普通のアラブの家で、とくに驚くほどではありません。また、景色もさしてよくもないです。だいたいどの建物も同じ高さなので、眺望が開けているわけではないのです。

結局、シバームの城壁内には、さして見るべきところはありません。この街は、涸川の対岸の丘の上から眺めるのがいちばんいい、ということになります。丘の上から街並みを眺めていると、なんてきれいなのだ、とつくづく思います。何時間見ても見飽きるということがありません。

ということで、外観は世界屈指の名遺跡だと思いますが、総合力ではサナアにも劣ります。人生で一度は見てもいいところですが、二度行く気はしない。そんな場所です。

ちなみに、シバームには、近くのサユーンという都市からタクシーなどで行けます。サユーンとサナアの間には、週4便程度の飛行機があります。水曜日には朝便で来て、夕方便で帰れるスケジュールになっています。とくにこだわりがなければ、日帰りで十分でしょう。僕は、スケジュールの都合で、月曜の朝便で来て、火曜の朝便で帰りましたが、月曜の夜に帰っても構わなかった。そんなところです。

(2007年1月訪問)

 ザビード ★★ 
  あまりに寂しい世界遺産


 イエメンで訪れる価値のある遺跡は、上記3つで十分だと思いますが、もうひとつ、世界遺産があるので、触れておきます。そうザビードです。

 ここは、「イスラム世界屈指の学問都市」と知られ、その面影を残す街並みが、世界遺産に指定されました。その後、都市化が進み、街並みの崩壊が著しい、として2000年に「危機遺産」に指定されています。危機遺産指定の理由が、「現在、都市の保全は不十分きわまりなく、現地視察によって重大な劣化が認められた。およそ40%の住居がコンクリートのビルに置きかわっていて、それ以外の住居やスーク(市場)も状態は良くない」からだそうです。不十分きわまりない、っていうのが、なんだかいいですね。

 ツーリストの評判は芳しくありません。「行く価値はない」「雰囲気だけ味わうのなら」というのがおおかたの評価で、「素晴らしい」というコメントを、僕は聞いたことがありません。

 いったい、どんな感じなのだろう、と行ってみました。

 一番上の写真が、街の中心ですが、はっきり言って、かなり寂れています。ホテルの一軒すらなく、荷物を預ける場所もない。カフェというか、ただの茶屋が一軒あるだけで、そこに荷物を預けるわけにもいかないので、僕はザックを背負ったまま、観光しました。

 これが、「イスカンダル・モスク」で、ザビード最大の見所です。オスマン時代に作られた、ザビードの中心的モスクだそうです。が、はっきりいって、そのへんのどこにでもあるモスクに過ぎません。

 ザビードが都市として発展するのは、9世紀、この地にジヤード朝が開かれてからのことです。それ以来、ここは紅海沿岸最大の学問として栄えました。代数学の発祥もこの地とされています。ま、代数なんて発祥しなくてもよかったのですがね、僕的には。ついでに微分積分も確率統計も解析も行列もシグマもログも、発祥しなくてもOKでした。はい。

 それはさておき、オスマン帝国の支配下に入った16世紀頃から、この地は衰退をはじめます。それでも、学問都市の体裁は保っていたようですが、20世紀に入ってからはもうダメです。最近はこんな感じ。


 かつては、綿花貿易の拠点としても栄えたそうですが、その商館らしき建物も朽ち果て、コウモリの巣となっていました。そういえば、小さな博物館がある要塞も、やっぱりコウモリが住んでいました。僕が入っていくと「ぱたぱた」とイヤな音を立ててはためいていきます。


 この街のもう一つの特徴は、幾何学紋様をした建築様式です。窓枠やテラスなどに、多彩な幾何学紋様が用いられている。ということですが、これだけ街が荒れまくっていたら、幾何学も代数学もないのではないかと。

 左は、モスク。この町には80以上ものモスクがあります。かつての学問都市の面目躍如、ということですが、みたところ、いまは機能してないモスクのほうが多いようです。右はスーク。スークといわれないと、ここがそれだとは気づかないでしょう。

 「このさびれっぷりがいい」という人もいるようですが、トータルとしては、世界遺産だからと期待して行ったら、がっかりするのは間違いありません。

 雰囲気はたしかに悪くありません。このあたりは、紅海沿岸ということもあり、人種が少し違うように思えて、それがエキゾチズムを駆り立て、この街のそこはかとないやわらかさを醸しているように思えます。

 どちらも、アフリカ系っぽいですよね。

 こうした人たちも、この街の古さと、いまは失われてしまった国際性を伝えているのかも知れません。そうしたトータルとしての「古き町」を見に行くつもりで、旅してみるのはいかがでしょうか。(って、なんとかまとめた?)

(2007年1月訪問)

 タリム ★★ 
  小さな学問都市


シバームの東50キロほどの位置にあるのが、タリムです。ハドラマウト地方の学問都市として知られています。

 ハドラマウト観光は、シバームとセットでタリムを回るのが一般的です。

  この街の特徴は、東南アジア系の建物が多いこと。古くから、ハドラマウト人は世界に出稼ぎに行っているのですが、そのうち、インドネシアで巨万の富を築いた者が、故郷に錦を飾り豪華な建物を建てたのです。

これが、代表的な建物。アル・カフ・パレスです。ステンドグラスの内部はきれいですが、結構荒れています。

あと、このアル・ミザールモスク。タリムを代表するモスクです。

小さな街で、居心地はいいですが、2時間もあれば十分見て回れます。シバームとセットで1日でいいでしょう。ここは世界遺産ではありませんが、ザビードよりは行く価値はあるかと思います。

(2007年1月訪問)

 マーリブ周辺の遺跡群 ★★★ 
  小さな学問都市

シバの女王、って聞いたことあります? ありますよね、名前くらい。でも、それがどこに、どんな時代にあったかなんて、みなさん知らないと思います。それは紀元前のイエメンの話で、そのゆかりの地がマーリブです。
 とはいえ、シバ王国は実在した国ではありません。旧約聖書に書かれているのですが、実在はしなかった、というのが定説です。ただ、モデルとなった国は実在し、それをサバ王国といいます。サバ王国は紀元前9世紀から同3世紀頃まで続いた国で、ここマーリブ周辺に都をおいていたとされています。ただ、どんな国だったのか、実態はほとんど明らかにされていません。

 日本のガイドブックのなかには、「伝説のシバ王国」があたかも実在したかのように書かれているものがありますが、それは間違いに近いです。もちろんシバの女王も、実在が確かめられたわけではありません。ソロモン王との恋物語が語られますが、それも旧約聖書の中の話で、かなり眉唾です。なぜなら、ソロモン王の時代は紀元前10世紀で、そのころサバ王国はまだ存在していなかった可能性が高いからです。

 このあたり、ガイドブックには間違いに近いことが書かれていますので、気を付けてみてください。まあ、何が正しいかなんて、結局はわからないので、何を信じてもいいのですが。

 さて、その古代サバ王国の遺跡が、マーリブにはいくつか残されています。ただ、保存度となると、かなり厳しいです。

 まず、オールドマーリブ。


 ここは、わりと建物が残されていますが、年代はかなり新しいと思われます。1960年代まで使われていた街なのですが、それが内戦で放棄されたにすぎません。つまり、遺跡と言うよりはただの廃墟です。見るべきものはとくにありません。

 次が、アルシュ・ビルギス。いわゆる月の神殿です。マーリブでもっとも有名な遺跡で、立ち上る5本の列柱で知られています。



 「シバの女王の宮殿」などとも言われていますが、伝説の域を出ません。列柱の彫刻は紀元3世紀頃のものとみられていますから、伝説のシバ女王との時代とは7000年の差があります。宮殿回りはまだまだ発掘途中です。

 それから、マフラム・ビルギス。



 こちらは太陽の神殿と言われています。ごらんのとおり、砂に埋もれていて、全体像はまったくわかりませんし、近づくこともできません。

 これは、古代ダム。


 紀元前8世紀頃に築かれ、以後改修が加えられ、決壊する紀元570年まで使われたといいます。石造りの水門などは見事というほかありません。これらが2800年近くも前の建造物だとすると、まったく脱帽してしまいます。

 また、このあたりは、現在は砂漠ですが、2000年前は水の豊かな肥沃な土地だったと言われています。ダムは、その傍証と言えるでしょう。


 マーリブ近辺は部族紛争の多いところで、治安はよくありません。外国人の誘拐がもっとも発生しやすいのもマーリブです。2007年1月現在、個人での旅行はできません。ツアーに乗るのがいいでしょう。サナアから日帰りできます。

 左がマーリブ市街。この日は、休日だったこともありますが、寂しくシケた街です。ツアーの往復には、護衛の兵士が着きます。見づらいですが、右の写真のトラックには、重機関銃を構えた兵士が荷台に立っています。
 トータルでみて、マーリブ周辺遺跡は、わざわざ見に行くほどの価値はありません。ですが、サナアにいて、1日2日時間があるのなら、行ってみるのもいいかと思います。その程度でしょう。

(2006年12月訪問)




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